うつ本。

うつ当事者のためのブックガイド

「普通がいい」という病 泉谷閑示

私はどうしてうつになったのか?

あなたもこう悩んだことがあると思います。現在進行形で悩んでいるかもしれません。悩みに悩み抜いて一度とりあえず棚に上げている、そういう段階にあるのかもしれませんね。私も現在進行形で悩んでいます。多くの人がこの問いを抱えているのではないでしょうか。ところが残念ながら現在の医学ではこの問いに十分に答えることはできません。

 

一般的に、うつは心理的ストレスなどの何らかの原因で脳内物質のバランスが崩れた状態と説明されます。その治療としては「休養を十分にとり中長期的に抗うつ剤を服用する」という対処療法が用いられ、病気自体は完治したとはいえない(再発の可能性がある)が、とりあえず症状が治まっている状態である「寛解」を目指した治療が行われることが多いようです。しかし、このように、現在広く行われている治療法では個別に様々に存在する「うつの原因」に対峙することはありません。根本的な解決は患者自身にゆだねられているといえます。

 

では、私たちは一体どうやって「うつ」と闘えばいいのでしょうか?

 

私も先ほどのべたような「寛解」を目指した「休養と薬物療法を中心とした治療」に長年取り組んでいました。また、インターネットでうつにいいと書かれているいろんなことを試してみました。バナナがいいと聞けばバナナを食べ、軽い運動がいいと聞けば散歩やジョギングを始め(すぐやめてしまいましたが)、規則正しい生活を送ろうと心がけました。

 

けれども、復職を目指して元の職場にリハビリ出勤を始めて二ヶ月ほど経過した頃のことでした。それまで苦しめられていた日内変動を伴う身体症状がほとんどなくなり、身体的には休職前の状態に戻ったと思えたある日のこと、突然「心」が出社を拒否しました。そのまま私は再度休職することになったのです。

 

私に何が起こったのでしょうか。

 

それまでは身体の不調に隠れて見えることのなかった(見ようとしてこなかった)私を苦しめている本当のものが顔を出したのだ、とその時私は考えたのです。

 

そして、その時に出会い、私に方向性を示してくれた本をこれから紹介します。

 

『「普通がいい」という病』の著者・泉谷閑示は先ほどのべたような、うつに対して根本的な解決ができない現在の医療状況に対してこのように述べています。

 

これは何も治せるのに治さないわけではなく、はっきり申し上げれば、それほどうつ病の再発に対して一般的な精神医療では限界があるために、それでも最善を尽くしているわけなのです。しかし、こういう一般的な治療に対して、私自身はずっと納得がいかず悶々としていました。そんなことでは、患者さんは再発という爆弾を抱えて、ビクビクしながら消極的な人生を送るしかないのではないか、と。(『「普通がいい」という病』p.34

 

私はまさしくここにあるように、「再発という爆弾を抱えて、ビクビクしながら消極的な人生を送」ろうとしていました。それは私の前途に暗く重い雲のようにのしかかっていて晴れることはないのだと、そう思っていました。

 

けれども、次の行にこうあります。

 

 そのうちに、嬉しいことに、担当している患者さんの中からちらほらと完治したと言えるケースが出てきたのです。その人たちに共通していたのは、うつ病の療養をきっかけに、大きく自分の人生を軌道修正された点でした。(同著p.34

 

私の「心」が突然、私に「NO」を突きつけました。私の「心」は私の何に「NO」を突きつけたのでしょうか。私はこう考えていました。うつは「脳」の病気である、と。薬物療法によって脳内物質の状態を健全な状態に戻すことによって病気はおさまる。再発しないためにはストレスとの付き合い方を考えなければならないけれど、この病気は自分の性格の一部だと考えて諦めるしかないのだ、と。私の「心」はこのような私の消極的な、受動的なあり方に「NO」を突きつけたのでした。

 

病気と本当に向き合うこと。

 

うつには心理的な原因があり、それに取り組むこと。

 

著者はうつを治すということを、症状の治療というレベルから、人生をより豊かにする、人格を成熟させるというレベルに引き上げることによって根本的に改善できることをこの本の中で示しています。この本ではうつに限らず、一般的に人間はどのように成熟していくのかということに対する著者の考えが、わかりやすい言葉で多くの事例や引用をまじえながら語られています。

 

頭 / 心=身体

著者の考えの根幹をなすのは以下のような人間観です。

 

 ここで「頭」とは理性の場のことです。一方「心」は感情や欲求の場で、「身体」と一心同体につながっていて感覚の場でもあります。

 この図(注:頭と心はつながっているが両者の間にはフタがある。心と身体はつながっていて、両者の間を遮るものはない)で特に重要なのは、頭と心の間にフタのようなものが付いていることです。これは頭によって開閉されます。ですから、このフタが閉まっている時には、「頭」VS.「心」=「身体」という内部対立というか、自己矛盾が起こります。しかし、一心同体である「心」と「身体」は、決して食い違いを生じません。(同著p.62

 

さて、著者によると「頭」は「とにかく何でもコントロールしたがるという傾向を持って」おり、しばしば「心」=「身体」をコントロール下に置きます。この傾向が行きすぎると「頭」による「心」=「身体」に対する独裁が行われることになり、それが心身の不調につながります。

 

「心」=「身体」は、常に「頭」に監視され奴隷のように統制されていて、ある程度のところまでは我慢して動いてはくれますけれども、その我慢が限界に来ると、何がしかの反乱を起こしてきます。

 たとえば、「心」がストライキを起こせば、うつ状態になりますし、暴動を起こせば躁状態や感情の爆発が起こる。それすら許されない場合には、仕方なしに「身体」の方から不調を訴える。また、「心」が化けて出てくれば、幻想や妄想を生じます。(同著p.74

  

このように、現代では過大になってしまっていがちな「頭」のコントロールを弱め、それが押さえつけている「心」=「身体」の能力を十分に発揮させることで両者のバランスを取り戻すことが必要であるというのが著者の考えです。

 

これは非常に説得力のあるモデルだと私は思います。

 

私たちは日々多くの「~ねばならない、~しなければならない」(それらは「頭」由来の言葉です)に囲まれ、縛られ、時間を費やし、本当にしたいことが何なのか考える余裕もありません。まれに自分の本当にしたいことについて考えることがあっても、その時には必ず自分が本当に何をしたいか全くよくわからないということに気付かされます。

 

このように、働くべきところで「心」がうまく働かない。そのことが、全体としての人間に歪みをもたらすのです。「頭」は生物の中でも人間だけが発達させた機能であり、生物として自然に力強く生きるために必要なのは「心」=「身体」の機能を自由にのびのびと働かせることなのです。

 

では、「心」=「身体」の優位を取り戻すにはどのようにすればいいのでしょうか。

 

感情の井戸

著者は、感情には「心」由来の深い感情と「頭」由来の浅い感情があり、「心」由来の深い感情をどのように扱うかが鍵を握っていると考えています。無意識(「心」)の井戸には深い感情、「喜・怒・哀・楽」の四つの感情が深いところから楽・喜・哀・怒という順番に入っています。中でも重要なのが一番上の「怒」で、井戸のフタを開けた時に一番はじめに出て来るのが「怒」なのです。一般的によくない感情と考えられるこの「怒」ですが、この、一番上の「怒」を押さえつけてしまうと、感情全般が意識に上るということができなくなり、「頭」由来の浅い感情しか感じることができなくなります。そうなることによって、本当に楽しいという感情や、自分が何をしたいのかということがわからなくなってしまうのです。

 

ですから、「怒」の感情を適切に出していくことが必要です。また、治療がうまくいってくると「怒」の感情が表に見えてくることになります。

 

 精神療法やカウンセリングの中でも、クライアントが変化を始めていくときに、「怒り」が最初に現れてきます。これが、人間が深いレベルで変化し始めるときの重要な兆候です。(同著p.113

 

駱駝・獅子・小児 

著者は人間の精神の成熟について、ニーチェの「三様の変化」(『ツァラトゥストラはかく語りき』より)を引き合いに出します。要約すると以下のようになります。

 

人に言われるがままに働き、より重い荷物を背負うことを望む「駱駝(ラクダ)」。人はまずこの「駱駝」の状態にあり、多くはその状態に甘んじて疑問も持ちません。

 

しかしそれに疑問を持つと、自分が自分の主人になろうとし、「龍」(「汝なすべし」)を倒す「獅子」(「我は欲す」)となろうとします。そして「獅子」となり自由を手に入れます。

 

しかし「獅子」にもまだできないことがあります。それは創造であり、遊戯であり、それを「然り」という言葉とともに行うことができるのが無垢たる「小児」なのです。

 

このように、人は「駱駝」から「獅子」となり主体性を持ち、さらに「小児」になることによって新たなものを創造することができるようになる、というのがこの「三様の変化」です。

 

ここでは「駱駝」に「汝なすべし」という「龍」による支配が加えられていますが、これはそのまま、著者の唱えるモデルでいうところの、「頭」が「心」=「身体」を支配していることと同じであり、これは外部からなされる場合もありますが、多くの場合はそのような「龍」の声を内面化し、自分で自分を縛っている状態にあります。「獅子」となり自由を手にいれることによって「心」=「身体」を救い出さなければなりません。

 

ここまではわかりやすいのですが、この先が少し難しいです。なぜ「獅子」は「小児」とならなければならないのでしょうか?

 

 小児は、創造的な遊びに没頭します。これはとても重要な点です。自由を獲得するために一度獅子になるが、そのあと獅子の「われ」は消えて「あるがまま」の小児になり、純粋無垢で無心に創造的な遊びに没入していく。これが人間の究極の姿なのだということです。

(中略)

「創造的遊戯」をするような人生に変わります。新しい自分になって、第二の人生を生き始めるのです。(同著p.129-130

 

 この「第二の人生を生き始める」ということができれば、うつを患っていた自分を過去のものにすることができるのではないでしょうか。

 

うつのメッセージとは? 

さて、私は身体症状が落ち着いたことで、それに隠されていた(または自分で見ないようにしていた)「心」の声を聞くことになりました。それは「(今までのようには)働きたくない」という声で、それは「心」の声ですので理由などはありません。そこで問うべきは「なぜ働きたくないか、それを解決するためにはどうすべきか」という「頭」の得意な分析的な問い方ではありません。その問い方では「頭」の支配から逃れることはできません。問いのたて方を「心」=「身体」主導のものに変える必要があり、それをすることは生き方を変えることでもあると言えます。

 

著者は治るということについてこのようにのべています。

 

 本人の基本的な価値観のところに革命的と言えるほどの大きな変化が起こり、そして、生き方が見直され人生も変わっていったということなのです。これは、うつ病の根本を成していると考えられている「病前性格」の部分に変化が起こって、完全に「治癒」したものだと考えられるでしょう。(同著p.34-35

 

そしてこのようにも語っています。

 

 私は「病気には何らかのメッセージが込められている。そしてそのメッセージを受け取ることが出来れば、その病気は消えていくはずだ」と考えるようになりました。

(中略)

 思い切って受け取ってその忌々しい包みをほどいてみると、そこには、自分が自分らしく生きていくための大切なメッセージが見つかる。(同著p.35

 

うつが治るということはこのように新しい人生を生きなおすような経験になるのではないでしょうか。

 

ここではじめの問いに戻ってみましょう。

 

〈私はどうしてうつになったのか?〉

 

うつを「脳」の病気とだけ考えてはいけません。そのように考え「なぜ」という問いを封じてしまうことは、うつが運んでくる大事なメッセージを聞き逃すことになってしまうのです。

 

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)