通話 ロベルト・ボラーニョ(読書中その2)
先日読み始めたロベルト・ボラーニョの「通話」ですが、目次で紹介したとおり全体が3つの部分にわかれています。
1 通話
2 刑事たち
3 アン・ムーアの人生
わざわざ3つのサブタイトルの元に各短編を置いているということは、つまり、各短編がバラバラに独立して存在しているというわけではなく、それぞれのセクションごとに何らかの繋がりがある、と考えることができるわけです。
ここでは「1 通話」5つの短編を通底するものについて考えたいと思います。
手紙、電話、届かない声
「1 通話」の5つの短編をとおして読んだとき、すぐに気がつくのは、それぞれの挿話(それぞれの短編は長さも短く、それぞれが「誰か」を巡った一つの挿話と考えることができる)が、一貫して、「メッセージが届かない」ということを語っているということです。
「センシニ」
「僕」はセンシニの電話番号を知らないために電話をかけることができないし、その後故郷に戻ったセンシニから手紙は届かなくなり、「僕」からの手紙も「転居先不明のスタンプを押されて」返送される。
「アンリ・シモン・ルプランス」
レジスタンス活動に精を出すも透明人間のように誰にも相手をされないルプランスを、ただひとり理解する「若い女性小説家」は、彼との別れののち、「自分は彼に恋をしたのだと独り言をつぶや」き、「二人は二度と会うことはない」。
5作の中で最も印象深いこの作品では、夢想家の詩人エンリケは「僕」に暗号付きの手紙を送るも、「僕」はそれを相手にしない。エンリケが自殺したのち、「僕」はエンリケの元同棲相手に電話で連絡を取るが、彼女は電話口で黙り込み、「僕は電話の調子がおかしくなったのではないかと思」い、しばらく話したのち、「小銭が切れてしまって(略)、通話が途切れた」。
「文学の冒険」
駆け出し作家である「B」は売れっ子作家である「A」に電話をかけるが、「最初のうちは、いくらかけても留守番電話の音しかしない」。電話が繋がったあとも、Aの奥さんが出て代わってもらえず、電話を切られる。
ナイトテーブルかソファの上に置いていったのか、あるいはキッチンの壁掛け電話からぶら下がったままなのか、彼女が手を放した受話器の向こうから声が聞こえる。聞き取りにくいが男の声と女の声で、どうやらAと彼の若い妻の声だなとBは思うが、やがてそこに第三の声、Aよりもっと低い男の声が混じってくる。(略)しばらく待っていると、というか不安を覚えながらBが受話器に耳を当てていると、誰かが、おそらくAが大声で叫ぶ。そして突然静かになり、Bはまるで見えない女に蝋で耳をふさがれたような気がする。そのあと(五セペタ硬貨を何枚も費やしたあと)、誰かが受話器を、そっと優しく置く。(「文学の冒険」)
このように、手紙や電話によるコミュニケーションの断絶が通底したテーマとなっています。
コミュニケーションの断絶の先にあるものは
そして表題作(このセクションだけでなく短編集の表題作でもある)の「通話」では、電話口でのコミュニケーションの断絶がひとつの気づきと「死」をもたらします。
ある夜、「B」は昔振られた女性「X」に、ふと電話し、それがきっかけでまた会うことになります。
ある夜、何もすることがないBは、Xに二回電話をかけたのちにようやくつながる。(「通話」)
BはXの住む町に会いに行き、精神的に参っている彼女の面倒を見ます。けれども結局Xに追い出され、自分の住む町に帰ります。帰った日の夜、BはまたXに電話をかける。その次の夜も。
Xの態度はだんだん冷たくなり、まるで電話をかけるたびにBが時のかなたへ遠ざかっていくかのようである。僕は消えつつある、とBは考える。彼女は僕を消しつつある、自分がしていることも、なぜそうしているかも分かっているのだ。(「通話」)
BはXに拒絶されます。
そして半年後、またBはXに電話します。
半年後のある夜、BはXに電話する。XにはBの声がすぐには分からない。ああ、あなたなの、とXは言う。Xの冷淡さに、Bは背筋が冷たくなる。(略)元気かい? とBは尋ねる。最近どうしてるの? とBは言う。Xはそっけない返事をしたあとすぐ電話を切る。(「通話」)
このように、Bはこれまでの4作と同様にコミュニケーションを閉ざされます。しかし彼はここでこれまでの4作では見られなかった行動に出ます。
Bは困惑し、もう一度Xの番号をダイヤルする。電話はつながるが、今度は黙っていることにする。電話の向こうでXの声がする。はい、どちらさまですか? 沈黙。それから彼女が、もしもし、と言い、そして黙り込む。時間ーーBとXを遠く隔てる時間、Bには理解できない時間ーーが電話越しに流れ、圧縮され、引き伸ばされ、その性質の一端をのぞかせる。Bは知らぬ間に泣き出している。彼は知っている。無言電話をかけてきたのが自分だとXが知っていることを。そのあと、彼はそっと電話を置く。(「通話」)
このように、彼は無言電話という手段で自らメッセージを閉ざすことにより、自分から電話を切る側に回ります。
それは何をもたらすのか。
ある日Xは殺され、警官がBを連行します。
Bの無実は晴れ、彼はXの兄と会います。
BはXに一度無言電話をかけたことがあると告げる。ひどいことするな、とXの兄が言う。一度きりなんです、とBは言う。でもそのとき、Xによくそういう電話がかかってきているんだと気づいたんです。それで、彼女はいつもかけてくるのが僕だと思ったんです。分かります? じゃあ、その無言電話の男が犯人なのか? とXの兄が尋ねる。そのとおりです、とBは言う。そして、Xはそれが僕だと思っていたんです。(「通話」)
Bの無言電話という行為はさらなるディスコミュニケーションを生み、それは取り返しのつかないことに発展したわけです。
このように取り返しのつかない形で断絶してしまったコミュニケーションは回復させることができるのか、はたまた全く別のテーマが出てくるのか。
「2 刑事たち」以降が楽しみです。
通話 ロベルト・ボラーニョ
今読んでる短編集です。
通話 ロベルト・ボラーニョ
ラテンアメリカ文学。ロベルト・ボラーニョの初期短編集です。
冒頭作の「センシニ」は若い作家志望の「僕」と老作家「センシニ」の文通による交流を描く。二人は生活費のため地方文学賞に応募する「同志」として出会い、新聞記事を漁って集めた地方文学賞の募集情報を交換します。先輩作家である「センシニ」は旺盛な投稿活動を手紙に記して送ってきます。
今のところ出口は文学賞への応募しかないのだ、と。賞を追いかけてスペインの地図上を散歩しているようなものですね、と彼は書いていた。もうすぐ六十歳になりますが、二十五歳の若者のような気分です、と、手紙の末尾か、もしかすると追伸で言い切っていた。最初はとても悲しい台詞に見えたけれど、二度目か三度目に読んだとき、彼はこう言っているのではないかと思った。君はいくつなんだい、坊や? 僕はすぐに返事を書いたと思う。僕は二十八歳、あなたより三つ年上なんですよ。その日の朝、僕は、幸せというのが言いすぎなら、ある種の活力、ユーモアの精神にとてもよく似た活力、記憶にとてもよく似たユーモアの精神を取り戻したような気分になった。
(「センシニ」より)
しかし、「僕」は「センシニ」ほどには必死に応募しなかったのかもしれない。応募できなかったのかもしれない。それから時が経ち「センシニ」は故郷の国に帰り音信は途絶える。「センシニ」の死が伝えられる。
ある日「センシニ」の娘「ミランダ」が父の住所録を頼りに訪ねてくる。「ミランダ」は、「僕」が、当時母親と「ガンマン」とか「賞金稼ぎ」とか「首狩り族とか何とか」と名付けていた、父と一緒に文学賞に応募していた人であると気づき打ち解けます。そのあとのラストシーンがいいです。ちょっと感傷的すぎる気はするけれど。
ふいに僕は、二人とも穏やかな気持ちになっていることに気がついた。何か不思議な理由で、僕たちはこうしてここにいる、そしてこれから先、いろいろなことが、かすかにではあるが変わろうとしているのだ。世界が本当に動いているような気がした。僕はミランダに歳はいくつかと尋ねた。二十二よ、と彼女は言った。じゃあ僕は三十過ぎてるってことか、と僕は言った。そして、その声さえも自分のものとは思えなかった。
(「センシニ」より)
それなら僕は三十一じゃんか! と思っちゃったのは秘密。
ちなみに、地方文学賞への応募を扱ったこの先品は、サンセバスティアン市小説賞を受賞しているそうです。
通話 ロベルト・ボラーニョ
目次
1 通話
センシニ
アンリ・シモン・ルプランス
通話
2 刑事たち
芋虫
雪
ロシア話をもうひとつ
刑事たち
3 アン・ムーアの人生
独房の同志
クララ
ジョアンナ・シルヴェストリ
アン・ムーアの人生
解説 いとうせいこう
訳者あとがき
こうして目次を見ていると、人物名らしき短編が多いのが特徴です。
他にどんな話があるのか楽しみ!
「聴く」ことの力 臨床哲学試論 鷲田清一(読了)
自分の中のテーマの一つに「対話」というのがあって、その問題意識から手に取ったのがこの『「聴く」ことの力 臨床哲学試論』です。すごくいい本だった。おすすめ。
読書中の記事はこちら
筆者のいう臨床哲学というのは簡単にいうと、象牙の塔にこもって失力した哲学を本来の人の間という場に引き戻そうという試みで、本書もその思想に則って書かれているため、非常に親しみやすいものとなっています(難しい漢字は結構出てくるけど)。
特に最終章で思考が加速していき、それまでバラバラぼんやりと弱く緩くつながっていた思索が強く像を結ぶのは考える読書の醍醐味と言えます。思索の結果としての内容にはもちろん納得し、新しい知見を与えてくれるものですが、こういう本はそのプロセスというか、ことばの歩みをともにするという態度が必要であり、筆者のいう「反方法の道」「散策の道」に身を委ねることがまさにそれです。
さて、「聴く」ことの力とは、ここでは、他者を迎え入れるというホスピタリティの力のことですが、それは個人が個人であることを取り戻す力であり、それは双方向的なものだと筆者は言います。
そうだとすると、ホスピタリティこそが個のかけがえのなさ、つまりは特異性(=根源的な単数生singularithy)を支えるということになる。そしてこの迎え入れられた個のかけがえのなさが、迎える個のかけがえのなさを支えるということになる。迎えるものが迎えの中で迎えられる者となるのだ。(p.232)
このように、聴く側にも聴かれる側にも個を取り戻す力が、聴くことにはある、ということです。
現代社会に生きる私たちにとって、個人のかけがえのなさというのはほとんど失われてしまっていると考えていいわけですが、そうした状況が私たちの心を確実に蝕んでいる。本書やあとがきの中では阪神淡路大震災、東日本大震災、また終末期医療やその他の医療に関わる看護、介護などのケアの現場における聴くこと、あるいはホスピタリティのもつ役割が取り上げられていますが、もっと私たちの身近に引きつけて、日々を生きることに対する自分で自分に対するケアに関しても、同じことが言えるのではないでしょうか。
また時間が経って読み返したい本のひとつです。
「聴く」ことの力 臨床哲学試論 鷲田清一
今こんな本を読んでいます。
最近精神科医の先生のところにカウンセリングに通っているのですが、誰かが自分の話を「聴いて」くれるだけで頭と心が非常にクリアになるんですね。
これは発見でした。
そこで「聴く力」です。なかなかカウンセリングに通うということはハードルが高いです。しかし、「自分の中の他者」を育てて、「自分で自分の話を聴く」ということができれば心の健康に役立つのではないでしょうか?
ここで突然ですがアンケート。これは本書の冒頭に取り上げられているターミナル・ケア(終末期医療・終末期看護のことです)をめぐるアンケート、もとは医療関係者にあてたものらしいのですが、あなたならどれを選びますか?
「わたしはもうだめなのではないでしょうか?」という患者のことばに対して、あなたならどう答えますか、という問いである。これに対してつぎのような五つの選択肢が立てられている。
(1)「そんなこと言わないで、もっと頑張りなさいよ」と励ます。
(2)「そんなこと心配しないでいいんですよ」と答える。
(3)「どうしてそんな気持になるの」と聞き返す。
(4)「これだけ痛みがあると、そんな気にもなるね」と同情を示す。
(5)「もうだめなんだ……とそんな気がするんですね」と返す。
「聴く」ことの力 臨床哲学試論 P.13
あなたはどう言いますか? 死を前にした悲痛な訴えにことばを返すのは難しいですね。どのように答えても本当には彼の気持ちに寄り添えない、そんな気にさせられます。
アンケートの結果ですが、「聴くこと」のプロである精神科医が選ぶのは「(5)の「もうだめなんだ……とそんな気がするんですね」と返す」なのだそうです。この一見なんの答えになっていない返答が、唯一患者のことばを「受けとめている」、この相手のことばを「受けとめる」というのが「聴くこと」の最初で重要なことなのだそう。
なるほど。ということは、「自分で自分のことばをしっかりと受けとめる」ということに自己治癒の大事な一歩がある、と言えるのではないでしょうか。
「聴く」ことの力 臨床哲学試論 については、また読了したら取り上げたいと思います。
目次
第一章 〈試み〉としての哲学
1 聴くという行為
2 哲学のモノローグ
3 哲学のスタイル
4 哲学のクライシス
5 哲学のオブセッション
6 哲学のテクスチュア
7 エッセイという理念
8 非方法の方法
第二章 だれの前で、という問題
1 哲学の場所
2 眼がかちあうということ
3 声がとどくということ
4 なにかに向かうということ
第三章 遇うということ
1 沈黙とことばの折りあい
2 間がとれない
3 補完性
4 だれかに遇うということ
第四章 迎え入れるということ
1 ある人生相談
2 ことばが摑む、声が響く
3 だれが聴くのか?
4 ホスピタリティについて
第五章 苦痛の苦痛
1 われらみな異邦人
2 傷つきやすさということ
3 苦しみを失う
4 祈りとしての聴取
5 パックという療法
第六章 〈ふれる〉と〈さわる〉
1 ひとの脈にふれる
2 〈ふれ〉の位相
3 「さわる」音
4 音響的存在としてのひと
第七章 享(う)けるということ
1 享けるという経験
2 「時間をあげる」、あるいは無条件のプレゼンス
3 たがいの裏側
第八章 ホモ・パティエンス
1 ケアとその〈場〉
2 歓待の掟
3 homo patiens
4 意味ともつれあいながら、意味の彼方へ
5 どっちつかずと明るさと
あとがき
文庫版あとがき
解説「臨床へ」高橋源一郎
「普通がいい」という病 泉谷閑示
私はどうしてうつになったのか?
あなたもこう悩んだことがあると思います。現在進行形で悩んでいるかもしれません。悩みに悩み抜いて一度とりあえず棚に上げている、そういう段階にあるのかもしれませんね。私も現在進行形で悩んでいます。多くの人がこの問いを抱えているのではないでしょうか。ところが残念ながら現在の医学ではこの問いに十分に答えることはできません。
一般的に、うつは心理的ストレスなどの何らかの原因で脳内物質のバランスが崩れた状態と説明されます。その治療としては「休養を十分にとり中長期的に抗うつ剤を服用する」という対処療法が用いられ、病気自体は完治したとはいえない(再発の可能性がある)が、とりあえず症状が治まっている状態である「寛解」を目指した治療が行われることが多いようです。しかし、このように、現在広く行われている治療法では個別に様々に存在する「うつの原因」に対峙することはありません。根本的な解決は患者自身にゆだねられているといえます。
では、私たちは一体どうやって「うつ」と闘えばいいのでしょうか?
私も先ほどのべたような「寛解」を目指した「休養と薬物療法を中心とした治療」に長年取り組んでいました。また、インターネットでうつにいいと書かれているいろんなことを試してみました。バナナがいいと聞けばバナナを食べ、軽い運動がいいと聞けば散歩やジョギングを始め(すぐやめてしまいましたが)、規則正しい生活を送ろうと心がけました。
けれども、復職を目指して元の職場にリハビリ出勤を始めて二ヶ月ほど経過した頃のことでした。それまで苦しめられていた日内変動を伴う身体症状がほとんどなくなり、身体的には休職前の状態に戻ったと思えたある日のこと、突然「心」が出社を拒否しました。そのまま私は再度休職することになったのです。
私に何が起こったのでしょうか。
それまでは身体の不調に隠れて見えることのなかった(見ようとしてこなかった)私を苦しめている本当のものが顔を出したのだ、とその時私は考えたのです。
そして、その時に出会い、私に方向性を示してくれた本をこれから紹介します。
『「普通がいい」という病』の著者・泉谷閑示は先ほどのべたような、うつに対して根本的な解決ができない現在の医療状況に対してこのように述べています。
これは何も治せるのに治さないわけではなく、はっきり申し上げれば、それほどうつ病の再発に対して一般的な精神医療では限界があるために、それでも最善を尽くしているわけなのです。しかし、こういう一般的な治療に対して、私自身はずっと納得がいかず悶々としていました。そんなことでは、患者さんは再発という爆弾を抱えて、ビクビクしながら消極的な人生を送るしかないのではないか、と。(『「普通がいい」という病』p.34)
私はまさしくここにあるように、「再発という爆弾を抱えて、ビクビクしながら消極的な人生を送」ろうとしていました。それは私の前途に暗く重い雲のようにのしかかっていて晴れることはないのだと、そう思っていました。
けれども、次の行にこうあります。
そのうちに、嬉しいことに、担当している患者さんの中からちらほらと完治したと言えるケースが出てきたのです。その人たちに共通していたのは、うつ病の療養をきっかけに、大きく自分の人生を軌道修正された点でした。(同著p.34)
私の「心」が突然、私に「NO」を突きつけました。私の「心」は私の何に「NO」を突きつけたのでしょうか。私はこう考えていました。うつは「脳」の病気である、と。薬物療法によって脳内物質の状態を健全な状態に戻すことによって病気はおさまる。再発しないためにはストレスとの付き合い方を考えなければならないけれど、この病気は自分の性格の一部だと考えて諦めるしかないのだ、と。私の「心」はこのような私の消極的な、受動的なあり方に「NO」を突きつけたのでした。
病気と本当に向き合うこと。
うつには心理的な原因があり、それに取り組むこと。
著者はうつを治すということを、症状の治療というレベルから、人生をより豊かにする、人格を成熟させるというレベルに引き上げることによって根本的に改善できることをこの本の中で示しています。この本ではうつに限らず、一般的に人間はどのように成熟していくのかということに対する著者の考えが、わかりやすい言葉で多くの事例や引用をまじえながら語られています。
頭 / 心=身体
著者の考えの根幹をなすのは以下のような人間観です。
ここで「頭」とは理性の場のことです。一方「心」は感情や欲求の場で、「身体」と一心同体につながっていて感覚の場でもあります。
この図(注:頭と心はつながっているが両者の間にはフタがある。心と身体はつながっていて、両者の間を遮るものはない)で特に重要なのは、頭と心の間にフタのようなものが付いていることです。これは頭によって開閉されます。ですから、このフタが閉まっている時には、「頭」VS.「心」=「身体」という内部対立というか、自己矛盾が起こります。しかし、一心同体である「心」と「身体」は、決して食い違いを生じません。(同著p.62)
さて、著者によると「頭」は「とにかく何でもコントロールしたがるという傾向を持って」おり、しばしば「心」=「身体」をコントロール下に置きます。この傾向が行きすぎると「頭」による「心」=「身体」に対する独裁が行われることになり、それが心身の不調につながります。
「心」=「身体」は、常に「頭」に監視され奴隷のように統制されていて、ある程度のところまでは我慢して動いてはくれますけれども、その我慢が限界に来ると、何がしかの反乱を起こしてきます。
たとえば、「心」がストライキを起こせば、うつ状態になりますし、暴動を起こせば躁状態や感情の爆発が起こる。それすら許されない場合には、仕方なしに「身体」の方から不調を訴える。また、「心」が化けて出てくれば、幻想や妄想を生じます。(同著p.74)
このように、現代では過大になってしまっていがちな「頭」のコントロールを弱め、それが押さえつけている「心」=「身体」の能力を十分に発揮させることで両者のバランスを取り戻すことが必要であるというのが著者の考えです。
これは非常に説得力のあるモデルだと私は思います。
私たちは日々多くの「~ねばならない、~しなければならない」(それらは「頭」由来の言葉です)に囲まれ、縛られ、時間を費やし、本当にしたいことが何なのか考える余裕もありません。まれに自分の本当にしたいことについて考えることがあっても、その時には必ず自分が本当に何をしたいか全くよくわからないということに気付かされます。
このように、働くべきところで「心」がうまく働かない。そのことが、全体としての人間に歪みをもたらすのです。「頭」は生物の中でも人間だけが発達させた機能であり、生物として自然に力強く生きるために必要なのは「心」=「身体」の機能を自由にのびのびと働かせることなのです。
では、「心」=「身体」の優位を取り戻すにはどのようにすればいいのでしょうか。
感情の井戸
著者は、感情には「心」由来の深い感情と「頭」由来の浅い感情があり、「心」由来の深い感情をどのように扱うかが鍵を握っていると考えています。無意識(「心」)の井戸には深い感情、「喜・怒・哀・楽」の四つの感情が深いところから楽・喜・哀・怒という順番に入っています。中でも重要なのが一番上の「怒」で、井戸のフタを開けた時に一番はじめに出て来るのが「怒」なのです。一般的によくない感情と考えられるこの「怒」ですが、この、一番上の「怒」を押さえつけてしまうと、感情全般が意識に上るということができなくなり、「頭」由来の浅い感情しか感じることができなくなります。そうなることによって、本当に楽しいという感情や、自分が何をしたいのかということがわからなくなってしまうのです。
ですから、「怒」の感情を適切に出していくことが必要です。また、治療がうまくいってくると「怒」の感情が表に見えてくることになります。
精神療法やカウンセリングの中でも、クライアントが変化を始めていくときに、「怒り」が最初に現れてきます。これが、人間が深いレベルで変化し始めるときの重要な兆候です。(同著p.113)
駱駝・獅子・小児
著者は人間の精神の成熟について、ニーチェの「三様の変化」(『ツァラトゥストラはかく語りき』より)を引き合いに出します。要約すると以下のようになります。
人に言われるがままに働き、より重い荷物を背負うことを望む「駱駝(ラクダ)」。人はまずこの「駱駝」の状態にあり、多くはその状態に甘んじて疑問も持ちません。
しかしそれに疑問を持つと、自分が自分の主人になろうとし、「龍」(「汝なすべし」)を倒す「獅子」(「我は欲す」)となろうとします。そして「獅子」となり自由を手に入れます。
しかし「獅子」にもまだできないことがあります。それは創造であり、遊戯であり、それを「然り」という言葉とともに行うことができるのが無垢たる「小児」なのです。
このように、人は「駱駝」から「獅子」となり主体性を持ち、さらに「小児」になることによって新たなものを創造することができるようになる、というのがこの「三様の変化」です。
ここでは「駱駝」に「汝なすべし」という「龍」による支配が加えられていますが、これはそのまま、著者の唱えるモデルでいうところの、「頭」が「心」=「身体」を支配していることと同じであり、これは外部からなされる場合もありますが、多くの場合はそのような「龍」の声を内面化し、自分で自分を縛っている状態にあります。「獅子」となり自由を手にいれることによって「心」=「身体」を救い出さなければなりません。
ここまではわかりやすいのですが、この先が少し難しいです。なぜ「獅子」は「小児」とならなければならないのでしょうか?
小児は、創造的な遊びに没頭します。これはとても重要な点です。自由を獲得するために一度獅子になるが、そのあと獅子の「われ」は消えて「あるがまま」の小児になり、純粋無垢で無心に創造的な遊びに没入していく。これが人間の究極の姿なのだということです。
(中略)
「創造的遊戯」をするような人生に変わります。新しい自分になって、第二の人生を生き始めるのです。(同著p.129-130)
この「第二の人生を生き始める」ということができれば、うつを患っていた自分を過去のものにすることができるのではないでしょうか。
うつのメッセージとは?
さて、私は身体症状が落ち着いたことで、それに隠されていた(または自分で見ないようにしていた)「心」の声を聞くことになりました。それは「(今までのようには)働きたくない」という声で、それは「心」の声ですので理由などはありません。そこで問うべきは「なぜ働きたくないか、それを解決するためにはどうすべきか」という「頭」の得意な分析的な問い方ではありません。その問い方では「頭」の支配から逃れることはできません。問いのたて方を「心」=「身体」主導のものに変える必要があり、それをすることは生き方を変えることでもあると言えます。
著者は治るということについてこのようにのべています。
本人の基本的な価値観のところに革命的と言えるほどの大きな変化が起こり、そして、生き方が見直され人生も変わっていったということなのです。これは、うつ病の根本を成していると考えられている「病前性格」の部分に変化が起こって、完全に「治癒」したものだと考えられるでしょう。(同著p.34-35)
そしてこのようにも語っています。
私は「病気には何らかのメッセージが込められている。そしてそのメッセージを受け取ることが出来れば、その病気は消えていくはずだ」と考えるようになりました。
(中略)
思い切って受け取ってその忌々しい包みをほどいてみると、そこには、自分が自分らしく生きていくための大切なメッセージが見つかる。(同著p.35)
うつが治るということはこのように新しい人生を生きなおすような経験になるのではないでしょうか。
ここではじめの問いに戻ってみましょう。
〈私はどうしてうつになったのか?〉
うつを「脳」の病気とだけ考えてはいけません。そのように考え「なぜ」という問いを封じてしまうことは、うつが運んでくる大事なメッセージを聞き逃すことになってしまうのです。
「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)
- 作者: 泉谷閑示
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2006/10/21
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行人 夏目漱石
考えすぎることは悪か?
漱石のフラットで乾いた文体は、いつ読んでも100年前に書かれたとは思えない。若干の「てにをは」や言い回しの癖をこちらの頭にインストールしさえすれば、昨日書かれたものとしても通じそうなくらいでただただ驚くわけだけど、文体だけでなく問題意識も現代に通じる、というか人間の普遍的な問題を扱っているのだと思う。結局のところひとことで言うと「目が開かれたことによる苦しみ」がテーマだと思うけど、「行人」では漱石の分身である兄さん(一郎)の苦しみが自分(二郎)という視点人物の行動に影響を与える、その可能性が描かれている。そこには現代社会の中で苦しむ「考えすぎちゃう人」に「あなたたちは間違っていない」と励ますものがあると思う。
作中、取りたてて美しいシーンというのはほとんどない(それが漱石の文体が容易に古びない要因でもある)けれど、最終盤の次のシーンには心打たれた。地味だけど。
その時二人の頭の上で、ピアノの音が不意に起こりました。其処は砂浜から一間の高さに、石垣を規則正しく積み上げた一構で、庭から浜へじかに通えるためでしょう、石垣の端には階段が筋違に庭先まで刻み上げてありました。私はその石段を上りました。
庭には家を洩れる電燈の光が、線のように落ちていました。その弱い光で照らされていた地面は一体の芝生でした。花もあちこちに咲いているようでしたが、これは暗い上に広い庭なので判然(はっきり)とは分りませんでした。ピアノの音は正面に見える洋館の、明るく照された一室から出るようでした。
「西洋人の別荘だね」
「そうだろう」
夏目漱石「行人」
兄さんの苦しみに長く付き合ってきた読者は、ここで、ずっと立ち込めていた暗く重い雲がすっと引くような爽やかさを感じるのではないか。そして、神経衰弱で寝られないことに苦しんでいた兄さんがぐうぐう眠るラストシーンに安堵する。
よく寝られることはいいことだよね。